古代の北茨城

 日本列島に人類が住み着いたときから始まった旧石器時代は、今から約1万年ぐらい前まで続きました。北茨城市内にある旧石器時代終わり頃の細原遺跡からは、当時の人々が使った石器約200点が出土しています。
 狩猟や漁業、採集によって人々が食料を得ていた縄文時代になると、上野台遺跡、北作貝塚、松井遺跡など市内20数か所に遺跡が確認されています。稲作が始まる弥生時代の遺跡には、お墓が確認された足洗遺跡などがあります。
 4世紀から始まる古墳時代の遺跡も市内数か所で確認されています。古墳時代前期や中期には集落が点在していたようです。6〜7世紀の古墳時代後期になると、当地域にも大きな支配勢力が存在していたらしく、鏡やガラス玉、金銅装の直刀といった貴重品副葬した古墳や横穴墓が見つかっています。
 奈良、平安時代になると北茨城市域は「多珂郡」という行政域に組み込まれていきます。細原遺跡からは、当時の役所関係と建物跡や集落跡などが見つかっています。奈良時代に書かれた『常陸国風土記』によれば、「多珂」という地名は、多珂国造に任じられた建御狭日命が地勢を見たところ、山の峰が険しく高かったことから名付けられたといわれています。

 

 
中世になると、北茨城市付近には多くの勢力が起こってきます。中でも、北茨城地方に大きな影響力を持っていたのが、常陸太田市を本拠とする佐竹氏でした。
 佐竹氏は、平安時代末に常陸の佐竹郷(常陸太田市)と奥陸の菊田荘(いわき市)を支配下においた源義光(源義家の弟)から始まります。義光の孫、昌義は、佐竹郷に土着し佐竹を名のり佐竹氏の初代となりました。
 この頃の佐竹氏の勢力範囲は、那珂川以北一帯に及んでいました。 
 佐竹氏は、保元の乱(1156)では源氏の源義朝に従っていましたが、平治の乱(1159)では二代隆義が平氏に味方していたため、源頼朝が平氏打倒の兵を挙げたときは、頼朝の招きには応じませんでした。そのため佐竹氏は一時頼朝と敵対関係になり、佐竹氏の領地内では戦いが繰り広げられました。頼朝軍によって金砂城を陥された三代秀義は、さらに花園城(北茨城市)に籠もりましたが、そこも攻め陥され、佐竹氏の勢力は大きく後退していきます。
 鎌倉時代になると北茨城地域にはいくつかの荘園がおかれ、地頭によって治められていました。
 菅俣城を本拠とする多珂荘大塚郷(北茨城市磯原町大塚辺り)の地頭大塚氏一族は、新田義貞の鎌倉幕府攻撃に参加し、数々の武勲をたてました。
 南北朝時代になると足利尊氏に従っていた佐竹氏は、常陸守護職となり北朝側の大きな勢力を持っていた大塚氏や岩城氏、勿来町から北茨城市関本町辺りを本拠とする境氏などは、御城山城(関本町関本上)、館山城(関本町福田)などを築き、佐竹氏と争っていました。しかし、佐竹氏の勢力が各地に浸透してくると、大塚氏や境氏を始め、車氏、森氏、臼場氏といった北茨城市付近に勢力を持っていた豪族たちは、やがてその家臣団の一員として組み込まれていきました。
 室町時代末、同族争いなどで佐竹氏の勢力が弱ってくるといわき市平を本拠とする岩城氏が、その勢力を南下させてきます。その結果、北茨城市内の花園・才丸・山小屋・平潟など、南は花貫川、西は里川に囲まれた地域は、岩城氏領となります。

 
佐竹・岩城両氏は、関ヶ原の合戦に反徳川方であったため、岩城氏は領地没収、佐竹氏は出羽秋田に国替えという処置が行われました。岩城氏のあと、北茨城地域は出羽角館から常陸国に移封となった徳川方の大名戸沢政盛の領地となりました。およそ20年後、戸沢氏が出羽新荘に国替えになると、北茨城地域の南側は水戸藩領へ、北側は陸奥赤館藩(後の棚倉藩領)へと組み込まれていきました。また、天領や旗本知行地となった地域もありました。幕末、棚倉藩主松平頼英が武蔵川越に国替えとなったため北側地域は、武蔵川越藩領となり明治時代を迎えます。このように江戸時代になっても当地域は、多くの支配地が入り組んでいました。
 江戸時代になって、北茨城地域の海岸には磯原・大津・平潟などの港が整備されました。そのなかでも棚倉藩領平潟港は、東廻海運の寄港地となり仙台藩の陣屋がおかれるなど非常な繁栄をみました。平潟から棚倉へ通じる棚倉街道は、「塩の道」とも呼ばれ、物資や文化交流のために大きな役割をはたしました。また、水戸から海岸線に沿って岩城平、相馬地方に通じる岩城相馬街道は平潟洞門の開通などによって整備され、大名行列や旅人の往来が盛んになったため、交通の要である神岡・足洗の宿場も大いににぎわいました。
 江戸時代には、農業や漁業などの産業も発展しました。松井村の水不足を解消するために庄屋沼田主計による「十石堀」という用水路の掘削や新田開発などによって農業の発達が促されました。また、水戸藩領である大津村は、漁業基地として「船八〇艘、地引網五二段あり」という繁栄をみせるようになります。末期には神永喜八によって石炭の採掘なども始まります。
 江戸時代末期、日本の沿岸には開国を求め各国の船が姿をみせるようになり、世情が慌しくなってきます。文政7年(1824)5月28日、大津浜にイギリスの捕鯨船があらわれ、乗組員が上陸した事件は、藩史始まって以来の大事件となり、幕府の海防論議に大きな影響を与えました。
水戸藩、川越藩から茨城県へ

 
幕末の慌ただしい政情は、維新の内乱を引き起こしました。水戸藩でも天狗党と諸政党が武力衝突し、北茨城地域の村々も混乱にみまわれました。
 慶応4年(1868)、幕府が崩壊し、明治新政府が成立すると、水戸藩や川越藩はいち早く新政府に忠誠を誓いました。
 しかし、幕府軍論王寺宮の平潟港上陸、「官軍」の上陸による軍事拠点化、それに対する旧幕府軍艦による海上からの砲撃などによって平潟周辺は戦乱に巻き込まれてしまいました。
 明治4年、廃藩置県によって、北茨城地域は、松岡、若森、川越の3県に分けられました。さらに、多賀、久慈、那珂、茨城、真壁の5郡におかれていた県を統廃合して、11月13日茨城県が誕生しました。
 明治11年には、北茨城市域は10個の連合村となり、明治21年には、大津、平潟の2町、南中郷、北中郷、華川、関南、関本の5村になりました。

 
県下15番目の市として

 こうして、北茨城市の各町村は、発展を遂げるとともに、時代の荒波にもまれながら第二次世界大戦の終戦を迎えるのでした。
 戦後、町村合併促進法によって、昭和30年には磯原町(旧北中郷村)と華川村が合併、さらに昭和31年3月31日、大津町、平潟町、磯原町、南中郷村、関南村、関本村が合併し、県下15番目の市として北茨城市が誕生し、現在に至っています。このときの人口は、60,282人でした。

神岡上古墳群から出土された七鈴鏡
北茨城市の歴史
戦乱にあけくれた佐竹氏統括の時代
商業が盛んになった江戸時代
 明治は、北茨城地域が大きく発展した時代でした。江戸時代末期に神永喜八が小豆畑で始めた石炭産業は、明治16年渋沢栄一、浅野総一郎などによる中央資本の進出により、販路拡大、出炭量の増加となり大規模な発展を遂げていきました。中郷、磯原、華川、関本などに近代化された多くの炭鉱が株式会社によって経営されるようになりました。その輸送手段として明治30年(1897)に常磐線が開通すると、磯原駅は積み出し駅として目覚しい発展をはじめました。それに対して、江戸時代以来商港として発展してきた平潟港は衰退し、漁業基地へと姿を変えました。また、大津港には水産学校が開かれ、漁業従事者の育成が図られていきました。
 明治から大正にかけて、日本美術院の五浦移転を始めとして、童謡詩人野口雨情、日本画家飛田周山、声楽家ベルトラメリ・能子など優れた芸術家を輩出しました。
沼田主計によって掘削された用水路 十石堀(北茨城市中郷町石岡)
常磐炭礦中郷礦(昭和46年)
ベルトラメリ・能子をかこむ記念写真
マウント茜から太平洋を臨む
花園神社 拝殿
(北茨城市華川町花園)
秋の花園神社(11月中旬)
紅葉の季節と初詣の頃はいっそう賑わいを見せます。
現在の平潟港